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■うなぎと歴史〜うなぎ食文化浪漫・・・・。
(いろいろな説があるので・・・今後追記することもあるかもしれません。)

■うなぎっていつから食べていたのか・・・

古い文献にウナギが登場するのは「風土記」(713年 地方の物産などの紹介がされている)に”ウナギ”が記されているようである。有名なのが「万葉集」(7世紀後半〜8世紀後半)の大伴家持の”石麻呂に吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ むなぎとり召せ”の歌がある。調味料のない時代には丸焼きにして塩で味付けして食べていたようである。1800年代には、うなぎを丸焼きにして焼いたのち切り、醤油と酒を混ぜて付るか山椒味噌をつけて食べるという。関東産の醤油の登場など調味料の進化とともに現在の蒲焼に近くなっていったようである。


■江戸前
江戸時代は徳川家康に始まる、新しい都市づくりの時代である。この時代の文献は数多くあるので、現在の首都東京の基礎がどのように出来てきたのか興味深いところである。江戸初期から中期にかけて、東京湾深く入り込んだ海と、湿地と台地にインフラ整備を進め、都市機能を集中させたようである。大都市江戸自慢のひとつに”江戸前”があり当時の”江戸前”というと鰻のことだったようだ。江戸前とは江戸城の前の海、現在の東京湾の一部だったようだ、現在ではうなぎに限っての呼び名では無くなってますな。特に深川産が重宝されたとか。江戸前鰻以外は旅鰻といって格が少々落ちたとか、人口が増えた江戸では江戸前だけでは間に合わず、利根川などの旅鰻もよく食べられたのだとか。そのころには、どこのうなぎ屋がうまいとかといったグルメ記のようなものも発行されているのも面白い。まるでバブルのころのようだ・・・。


■関西流・関東流
関西流の鰻調理法は、腹裂き、背鰭・尾鰭・頭をつけたまま、金串にさして身のほうから焼く。江戸時代の関西のうな丼は、丼ぶりにご飯を盛りその上に3寸程度のうなぎを入れ、さらにご飯を盛りその上に小さいウナギをいくつかのせるようなものだったようだ。関西の「まぶし」とか「まむし」という語源は「真蒸し」という説もあるようだ。関東流の鰻調理法は、背裂き、二つに切ってから竹串にさし、皮のほうから焼く。江戸時代、文化・文政には蒸す過程を取り入れていたようだ。関東では武士の文化で切腹を嫌うことから背裂き・・・という俗説もあるようですが、江戸では蒸しの工程を入れるため竹串を打つため背裂きでないと作業がむずかしらしい、大阪では蒸しの工程がないので、裂く速さを重視で腹裂き・・・ということらしい。いこの東西鰻の良し悪しについてもいろいろな説があるが、人それぞれ好みのあるところなのだろう。この違いを楽しむのも私は楽しみにしているところがある。


■うな丼
今では天ぷら屋・蕎麦屋など一軒の店を構えるのが通常だが、江戸時代は屋台売りが主流だったようだが、うなぎ屋は座敷のある店舗の形態をとり格も上だったそうだ。お値段もよろしく蕎麦の10倍の値段だったそうだ。うな丼の発祥は、人形町そばの芝居町の「大野屋」だそうで、芝居の合間でも鰻を取り寄せて食べるほどうなぎ好きの久保今助という人が、うなぎが冷たくならないように大きな丼の中にご飯と鰻を合わせて持ってこさせたのが始まりのようだ。


■土用の丑
こちらも諸説あるようだが、有名な説は、平賀源内が、知り合いのうなぎ屋を繁盛させようと「本日土用丑の日」と書いて店頭に張り出すと客が次から次へと入り大繁盛したということのようだ。




ほんの一部、簡単にサラッと記したのでございますが、まだまだいろいろウンチクはあるようです。
「「うなぎの本」著:松井魁 柴田書店」では300ページにわたって書かれていますので興味とお時間のある方にはおススメでございます。ホントに奥が深いのでございます。。。。


参考文献

「うなぎの本」著:松井魁 柴田書店

「江戸のファーストフード」著:大久保洋子 講談社

「江戸東京グルメ歳時記」著:林順信 雄山閣出版

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